日奉精神とは何かー3 前のページ  作製中  

  日蓮は、房総半島の縄文精神の環境で成長したために、セム・アーリア系思想の影響を受けて誕生した大乗仏教[妙法蓮華経]を基礎として高度の仏教論理を保持しながらも、「縄文のこころ」という人間性に富んだ性格を帯びています。縄文精神の日奉族は、鎌倉で日蓮思想に共感して、真言宗から日蓮宗へと改宗し、武蔵国に日輪寺を、下総国に浄妙寺を創建しました。この浄妙寺の系統から、日蓮宗の学問所の双璧[両義的二極構造]である飯高檀林と中村檀林が生まれました。日蓮思想が両義的二極構造を内包しているために、日奉族が鎌倉北条・足利・上杉・後北条という高度の論理性の支配を敬遠・回避する際の精神的支柱となっていました。日奉族が更に論理性の高い豊臣秀吉から招聘を受けた際には、相州の山に入り仙人になったとして敬遠・回避しています。日奉族の両義的二極構造が生きていたから、この敬遠・回避の判断が可能でありました。徳川家康が関東に入ると非常に裕度のある支配を展開し、日奉族の故地である鏑木村は天領とし日奉族と縁の深い原田氏の領に組み入れて、その活動に自由を与えました。家康は、日蓮宗の基本的思想であった不受不施義の日奥の論理性と対立すると、精神性の高い裕度を示して、日奥との間で立場が逆の様相を呈してました。釈迦が、この情況を見ていたらどう思うのでしょうか、宇宙の意思と入れ子構造にある人間の存在として考えねばならない大切な出来事でした。幕府支配者層に不受不施派のこの弱点を突かれて、出来レースの身池対論(1630)が江戸城で行われて、それまで純粋の日本精神として、八百万神的形態を保持して来た日蓮宗にも、中国論理性の影響下にある他宗と同様に、身延山を頂点とするヒエラキー構造を採ることになり、幕府の支配下に組み込まれることになりました。釈迦の無諍[言い争わない=空性]についての原始仏教と大乗仏教との間の違いにも、同様なことが言えると思います。その後、日奉族は、身延系に主軸を置きながらも不受不施義をサポートしていましたが、職業化し権威を増したものの民衆の救済能力を失った日蓮宗が、縄文の精神から離れて行くことに悩み続け、江戸末期には本居国学に精神の拠り所を求めるようになって行きました。

 

      

日奥聖人「不惜身命」(1623)       日充聖人「日天子」(1633)

 江戸城での身池対論は、判定者の構成やキリシタン弾圧等の時代の流れから分かる通りの「出来レース」でありました。日奉族出身の中村談林8世平山20世日充は池上側[不受不施]に立ち、敗れて岩城国に遠流となり、中村檀林を除籍され別姓[鈴木氏]を名乗って、流刑の地から上掲の御本尊を届けて来ています。日奉大明神とは書かずに、法華経の行者を守護する「日天子」と書いているのは、中村地域に残された日奉族への日充の配慮だと考えられます。既に徳川家康は他界していましたが、多古における激しい弾圧の際にも、日奉族が不受不施派を影で支援し、宗門人別帳・名主制から距離を取って支配制度を敬遠する日奉族の態度を、暗黙裡に許容する幕府の寛容度が示されています。ここが、家康が日本最高の支配者と言われる由縁で、今川氏での人質生活の中で、宇宙の意思すなわちこの世の空性を感得する能力を育んだものと思われます。

 太陽信仰は、日々の生活の中で太陽エネルギーの創発する諸現象[諸法]に宇宙の意思=空性を感得することを基本としています。その信仰による派生的性質として、日々東方から上る太陽に希望を抱く、生物として極自然な東方指向性を保持しています。殊に、日本民族は、人類社会に間断なく発生する争いごとを美化することによって成立する文明を敬遠して、世界の最東端に逃避して来た人々で構成されていますから、本質的に東方憧憬の空性を保持しています。アインシュタインは、田舎の子供やおばさん達が作り出す空間に素晴らしい空性を見出して、日本人はこの美しい社会を失わないでほしいと懇願して日本を離れました。「縄文の心」の東方憧憬を継承した日奉族は、東総の東の果て銚子を世界の最東端と見做して、海上山妙福寺(1715)[下海上国末裔の寺]を創建しました。秘蔵されている記録を見ると、幕府支配という論理性では救済しきれない人々の心を、日奉族が日本列島の歴史を通して培って来た手法で、救済しようと努力しています。幕府の新寺創設禁止を敬遠しつつ、朝廷側の勢力を背景に引寺という手法を虚構しています。ここが「縄文の心」を汲む日奉精神の特長で、宗派に関わらず東総の人々が出来る限り多くこの建設に関わって貰うことを重要視しています。 世界の最東端・人類の発祥地アフリカから最も遠い銚子市に日奉族が創設した海上山妙福寺には、『経王寶殿』の掲額があります。その意味は、世に流布している経典の中で最高の経典である法華経を寶とする殿堂ということです。この額の原図は我が家に掲げられており、銚子と鏑木の二極構造を採っています。当時、京都宝鏡寺を拠点として、朝廷に仕えていた29世久甫が、徳厳法親王に揮毫を依頼したものです。 京都の朝廷と江戸の幕府との双方からの支援を得て、文明の二大虚構[朝廷と幕府]を超克した形で、日本の最東端に人類の理想が表現されています。空性のこの世での顕現ということです。

 日本列島の論理化は紀元前後から始まり、秦・漢王朝の盛隆の影響が北九州・山陰地方に及んだ結果、支配単位としての「クニ」が発生しました。渡来系支配者層は、漢王朝の中国を高天原とする精神[ヒエラルキー構造]に染まっていました。その国々が争いを始めると、魏王朝から五斗米道系の卑弥呼と通使が派遣されて[事実は別として実質的に]、それを中心に国家的体制[ヒエラルキー構造]が現れました。その後の倭の五王も中国の各王朝を高天原と見做して、中国の冊封を希求していました。継体王朝が誕生し、縄文精神の故地:関東でも国家的体制[ヒエラルキー構造]の支配が本格化していました。日本列島に津波のように押し寄せる大陸の論理性の中で、敏達大王は南関東の縄文の精神の中に、日本列島人としての生きる道を求めようとして、日奉部(577)を設置されました。ここに、高天原=中国文明とその背景としてのセム・アーリア文明から影響を受けた思想と、縄文精神=宇宙の空性の創発性の影響を受けた思想との二極構造を持つ大和心が生まれました。この縄文精神を持つ国としてのプライドから、厩戸皇子[聖徳太子]の「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。恙(つつが)無きや…」が生まれました。しかし、白村江の戦で敗戦で唐王朝の羈縻(キビ)政策を受けて、近江京に遷都が命じられました。幸いなことに、新羅の活躍によって唐王朝の直接支配から逃れることが出来ました。急ぎ国家の立て直しが行われ、律令制の導入と共に、ヘレニズムやヘブライズム[景教]を含む大陸の論理性を参照して、支配者宗教としての一神教的伊勢神道[ヒエラキー構造]が生まれました。これに携わった天武天皇や藤原不比等の才能の素晴らしさは、宇宙の空性に配慮して天皇霊を、新設された支配者宗教[ヒエラキー構造]から隔絶すると共に、大衆には一神教に見えるアンビバレンスな状態を虚構[両義的二極構造]したことです。

 その後も、大陸の仏教や律令等の大陸論理性が滔々と押し寄せ、最澄や空海に代表されるような宗教[ヘレニズムやペルシャの思想も影響している]が大衆の救済を行っても、支配者層の論理性の波を抑えることは出来ませんでした。平将門は縄文精神の故地で新しい体制を組み直そうといますが、悲しいかなアーリア思想の流れを汲む貴種の出身であったために、縄文精神の風土に適合出来ずに消え去りました。時を同じくして、日奉宗頼が縄文精神の故地:武蔵国の国司に着任して、都の論理性に飲み込まれ消滅していた日奉精神の再編成を行いました。南関東では縄文精神が人々の心に伏流水として残留しており、後にそれが顕現したものが「もののふのみち」と呼ばれ坂東武士の精神的支柱となっていました。その後、鎌倉幕府・室町幕府という貴種と呼ばれる階層の支配が続き、中国の冊封を求める将軍もいましたが、曲がりなりにも日本精神[両義的二極構造は維持されていました。しかし、南関東の武士の中にも商品経済が蔓延して日奉精神を維持すりことが風前の灯となり、日蓮の思想に帰依して日奉精神を維持することとなりました。法華経そのものがヘレニズムの影響を受けており、一神教的性格も保持している訳ですが、1630年の身池対論までは形態的には全国の寺院が平等であるという純日本的性格[八百万神的]を保っていました。

 戦国末期になると、西欧文明の直接伝搬の前触れとしてキリスト教が日本列島の西部に伝来し、九州ではその論理性に洗脳された人々が多く現れました。鉄砲等に見られる偏った論理性を憂慮した徳川幕府は鎖国政策を実施しました。これによって、中国の冊封よりも厳しいヨーロッパ諸国の植民地政策を敬遠し、見事に日本古来の国体を維持しました。しかし、約250年後に再度のキリスト教化を使命とした黒船の来航し、過ってキリスト教文明に洗脳されことがあり関ヶ原の戦の敗者でもある薩長藩を、戦争[薩英・下関]で壊滅させずに屈服させる手法によって日本列島のキリスト教化の手先に仕立てその上に天皇霊を乗せて、縄文精神の故地関東地方の収奪を行わせ、キリスト教精神に沿った新しい支配層を形成させました。日本民族が長い歳月を費やして築き上げて来た天皇霊を江戸城という古家に住まわせ、英国王室を代表とする西欧王室と同等な収奪王朝に仕立ててしまいました。宇宙の空性を希求するという、日本人のみではなく全人類にとって掛け替えのない天皇霊を、欧米文明に巻き込んでしまった明治以後の支配者の思考の軽薄性は悲しいことです。キリストの生まれ変わりといわれたマッカーサーが日本を統治した時、日本をキリスト教化することは簡単だが、支配者層を見る限りその必要はないと語ったということです。大東亜戦争の責任を曖昧にして、西欧文明に感化された支配者層を残したために、見かけ上は繁栄した都市文明を形成していますが、国土全体と国民は疲弊して衰退の一途を辿っています。  次のページ